第3話 日本国民への教育(教科書)の在り方

1)日本を見直そう

 自虐史観と言う言葉はあまり好きではない。しかし、筆者は今の歴史教科書が、「著しくバランスを欠いている」、あるいは、「著しく日本に対して悪意を持って書いてある」と考える。と言うよりも、教科書や副教材を書いている人間は「一体どっちの味方なのだろう?」と首を傾げっぱなしである。ひょっとしたら中国人や韓国人の学者が日本名で書いているんじゃないか(?)と思えるくらいである。この教科書で、本当に自分の国、あるいは自分自身を温かい目で見られる心豊かな子供が育つだろうか?もし教科書会社が、我が国の歴史、文化、伝統と言うものを「憎む」気持ちを子供たちの心に育みたいのなら、現在の歴史教科書は、「誠に適正」であると言える。しかし、自分の国をそんなに苦しめて、一体、どんな未来が待っていると言うのだろうか?

2)現在の、バランスを欠いた歴史教科書が、子供たちに与える影響について

1、   先祖を否定することは自分自身の命の源を否定することに他ならない。これは、現代の子供たちが、「自己肯定感」を持てない理由である。(注1)

2、   国家は人民を抑圧する悪と規定し、社会の絆の破壊しようとする。これでは、人は大勢の人に支えられて生きているということがわからない。すなわち、子供たちの「孤独感」、「疎外感」を生む。

3、   またこれでは逆に、人間社会において自分も一隅を照らす構成者であり、構成者であるがゆえに何らかの責務を果たそうとする、「健全な公共心」も破壊する。結果、人間を「自己の利益の追求」のみに走らせる。自分さえ良ければ何をしても良いと言う、「度を過ぎた利己主義」を助長する。(注2)

4、              残虐で目を背けたくなる記述の連続。「おまえの家は、先祖代々極悪人の家系」だと言われているようなもの。このような極悪人であった先祖たちと、自分は、無関係だと思いたい。一方、どうせ悪人の子孫なのだから悪い事をするものしかたがないという、犯罪意識の低下を生む恐れがある。

5、  人類の歴史を、階級闘争の歴史とし、子供たちの不満と闘争心をあおる。しかし、根底に「感謝の気持ち」がなければ、いかなる人間関係も好転しないのは、健全な社会人なら誰でも思うこと。このような、「反逆的思想教育」を受けた若者が、実社会に適応できず就職先が見つからない、あるいは、就職してもすぐに挫折し、無職のままぶらぶら過ごし、結局犯罪に走る実例が後を絶たない。(注3)

 

(注1)少々古い話しだが、昭和60年8月25日産経新聞に載った一つのインタビュー記事を引用する。語っているのは、長らく少年院で非行少年の更正指導にあたってきた倉科茂氏である。

私は少年院で仕事をした38年間に、ご先祖様を大切にして仏壇に手を合わせると言う習慣のある子を一人も見ていません。ですからご先祖の事を子供に話してやりなさいと言うんです。おじいちゃん、おばあちゃんは貧乏で借金したけど、こういうところは偉かったと言う話しを、多少オーバーでもいいじゃないですか。ボタ餅を作ったら、まずお皿にとってテーブルにのっけて『ご先祖様、お初物ですよ、召しあがってください』と手を合わせる習慣をつけることですよ。そんな簡単な事くらいは出きるでしょう。別に宗教じゃなくてもいいんです。それをすると言う事は、自分が年を取ってから子供に尊敬されるということなんです。」
 このお話に「現行教科書の欠陥」があぶり出されていると言って良いだろう。自分の命は誰でも両親(二人)から貰ったもの。両親はそのまた親である、祖父母から命を貰い育てられた。祖父母の代までさかのぼると誰にでも4人の先祖がいらっしゃる。その無限の先祖の一人が欠けても、自分がここにいることは無い。だから人の命は重い。人は決してみず溜まりから生まれたのではない。親を思い先祖を思う心は、自分自身の命の源としっかりと結ばれるために不可欠であり、これ以外に漂流する現代の青少年が、自己のアイデンティティーを取り戻すすべは無い。誰もが先祖の物語を持っている。そこに小さくても良いから「誇り」を見つけることだ。それが歴史を学ぶ本当の意味ではないだろうか?

(注2) 筆者の個人的な感想であるが、先日あるショッピングセンターの駐車場で家族を待つ間、障害者用の駐車スペース」と明らかに分るところに、次々と表示を無視して駐車する人が後を絶たなことに唖然とした。これでは本当に体の不自由な人が利用しようとしても全く駐車スペースがない。これでは何の為にこのスペースが確保されているのか解らない。「自分さえよければ人はどうでも良い」という自分勝手な考えは、相当日本国民の間に浸透していると見て間違いない。
 現代の日本には、誇りの感覚がないから恥の感覚もない。いじめが無くならないのも『弱いものいじめが恥ずかしいことだ』という羞恥心の欠如に問題の一端があるのではないか?人間が『わがまま』や『だらしなさ』を自由と履き違えた放任教育でどんどん『動物化』している。我々の子供たちはこのような大人にならないよう、しっかり教育しようではないか。

(注3) 今年(平成12年度)の卒業シーズンには、国立市の小学校で「国旗」を掲揚した校長に対して、児童が「土下座を求める」事件が起きていると言う。「児童の意向を無視した学校運営は、許されない」と言う主張であるらしい。裏で小学生を扇動している大人が必ずいるはずだ。幼いうちから政治色の強い活動をさせられたことが、児童たちの人格形成にどのような影響を与えるのか危惧される。

 現実に、歴史教科書、あるいはその背後にある思想(共産主義)が撒き散らした弊害が、子供たちの間に蔓延してきている。一方、実は子供たちもさる事ながら、大人たちにも自信がないことが、この社会の不安を生んでいる。誰が自信を持って天下国家を子供たちに説き、人の道を示せるだろうか?それは、大人たちも、現在にいたるまでの「自分を含めた国の成り立ち」をきちんと学んでこなかったことに原因がある。過去を正しく受け止められないため、未来に対しても長期的理想や夢を描くことが困難になってきている。長期的視野で国家としても、個人としても明確な目標を持てない為、日々の小さな失敗ですぐ挫折し絶望する。さあ皆さん、奪われた祖国の歴史を取り戻す旅に出ようではないか。自分がどこから来て何の為にここにいるのか、その本当の意味を知る為にも。

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