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第2話 弱肉強食の世界構図 1)帝国主義と植民地政策 「帝国主義」という言葉は、1860年代の終わりに、イギリスの保守党のディズレリーが、イギリスの社会的危機からの抜け道の一つとして、植民地を「帝国」として合理的に組織するという発想から発展したものである。 この「帝国主義」は、単に経済的に生産力の発展の結果起こったというばかりでなく、それは資本主義体制を批判する勢力がある中での、激しい対立が進行しつつある状況のもと、「革命勢力を抑圧しようとする動きそのもの」としても捉えられなければならない。つまり帝国主義の発展の背景には、資本主義の発展に伴う経済発展からの圧力だけでなく、自国の国民から沸き起こる革命勢力を抑圧するための政治的な手段としての要素も存在したということができる。 そしてこの帝国主義思想は当時の列強の国々における共通の認識(常識)となり、彼らは競って軍備を拡張し、海外の植民地の確保に乗り出すこととなる。 十九世紀後半のヨーロッパには新しい危機が発生しつつあった。それぞれの強国の国内における社会主義運動の発展、また中国・インドをはじめアジア・アフリカ等における自然発生的な民族的抵抗、またバルカンから中近東にかけて、もっとも顕著にあらわれる国際対立などは、ヨーロッパの危機を促進する重要な要因であった。 1891年における露仏同盟の成立が、この時期のヨーロッパの歴史的条件を集中的に表現していた。露仏同盟の成立はドイツ帝国にとって、東西から挟撃する軍事同盟の成立を意味するものであった。また、1882年以来存在していたドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟も、この時点から自動的に新しい段階の軍事体制を意味せざるを得ないものとなる。そしてヨーロッパ大陸は相対立する二つの陣営に分割されたこととなった。 しかし、この露仏同盟成立の事情は、決して単なる国際関係の問題ではなく、それは諸強国の国内体制の変化とも緊密に結びついていた。 例えばドイツの場合、1871年におけるドイツ帝国の統一自体が、強力な国家権力と軍事力とを背景とするものであり、そしてそのことは、封建貴族ユンカーと資本家階級との妥協、労働者階級への圧迫など、複雑な階級関係の上に立つものであった。 いうまでもなく、ここでドイツに関して述べたような新しい段階の危機的様相は、それぞれ違った形においてではあるが、いずれの強国の場合にもあらわれている。そして、急激な資本主義の発展に伴い湧きだしてきた国内の諸問題を、強国は一様にして植民地政策により解決を図ろうとしていくのである。
このようにして新しい「帝国主義」が、世界を覆いはじめていた。それは確かに全世界の資本主義的発展の結果であるが、これまで述べたような社会の歪みを調和せしめることはできない。むしろそのような社会の歪みを生み出すことなしには、そもそも帝国主義は存在しえないものであった。 ヨーロッパ諸強国の内外の危機がこのようにして、まず第一に「世界政策」によって転換されるのであり、露仏同盟ののち、舞台は東アジアにうつることとなる。 |