第3話 近代国家へのうねり

1)黒船来航−幕府の混乱

 嘉永6年(1853年)、浦賀沖にアメリカ東インド艦隊司令官マシュー・カルブレイス・ペリーが率いる4隻のアメリカ軍艦が投錨した。旗艦サスケハナ号、ミシシッピ号、サラトガ号、プリマス号である。
 最初、庶民はのんきに構え、見物のため浦賀に繰り出し、中には船を仕立てて近くから見ようとする者もいたという。しかし、黒船が江戸を砲撃するかもしれないという話が広がり、武士や町民に対して、十分に警戒するようにとのお触れが出ると、そうのんきに構えてもいられなくなった。
 「太平の眠りをさます上喜撰 たった四はいで夜も寝られず」という狂歌に詠まれた騒ぎにつながっていく。「上喜撰」というのは高級茶のブランド名のことであり、その上喜撰をたった四杯飲んだだけで、つまり蒸気船が四隻来航しただけで夜も寝られなくとは情けない、と皮肉っている。
 しかし、幕府は近代的な外国船を知らなかったのではない。それまでに、異国船打払令(無二念打払令)を出して、来航した外国船を数回にわたって追い返している。

 この度の黒船の来航は、幕府にとって思いもよらなかった事ではない。実のところ、前年にオランダ商館長から、ペリー艦隊の来航を知らされていたのだった。ところが幕府のとった対応策は、三浦半島に彦根藩からの防備の兵を増やした程度だった。つまり、今までの外国船のように帰ってもらおうとしか考えていなかったようだ。
 しかし、ペリーは今までの外国人とは違っていた。強硬な態度で、頭から幕府の役人を呑んでかかっていた。
 この時のペリーの要求は、アメリカ大統領フィルモアの国書を渡すことであった。浦賀奉行所の与力・中島三郎助が訪れるが、門前払い。同じく香山栄左衛門も訪れるが、国書を受け取る事はできなかった。上の者と話してみるので4日の猶予をくれるように頼んだ。3日なら待とうという答えである。さらに国書を受け取らないのであれば、江戸湾を北上し、兵を率いて上陸し、将軍に直接手渡しすると脅しをかけた。
 この時の将軍は、12代徳川家慶だったのだが、病の床にあった。家慶はペリーが去った後の6月22日には他界しているのだから、何かの決定を行えるような状態ではなかった。結局、国書を受け取るぐらいは仕方ないだろうとの結論に至ったのが6月6日であった。
 こうしてペリーは、目的を果たして帰っていった。来年、さらに大規模な艦隊を率いて国書に対する返事を聞きに来ると言い残して。
 幕府は大混乱となる。13代将軍・家定は病弱で、国政を担えるような人物ではなかった。動揺した幕閣は、300年の間、一度としてやらなかった事をやってしまう。大名、旗本、さらには庶民に至るまで、幕政参加の権利を持たない人々へ、広く意見を求めるということをしたのである。一見、民主的な行動のようだが、幕府が弱体化していることを広く世間に公表したようなものであった。

ペリーの神奈川上陸
(「中学社会」大阪書籍より)


 翌年、黒船が再来する。幕府は、返答を引き伸ばそうとしたが、ペリーの軍事力に屈する形で、安政元年(1854年)3月3日、日米和親条約締結にいたった。

この日米和親条約は、12ヶ条からなり、主な内容として、
・薪、水、食料の供与。
・難破船、漂流民の保護。
・下田・箱館を開港し、領事の駐在を認める。
アメリカに対して一方的な最恵国待遇を与える。

というものだった。

 アメリカと条約を結んだ事により、イギリス・ロシア・オランダなどの列強諸国も同様の要求を突きつける事となった。


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