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5)新撰組−誠の旗の下に 新撰組は、文久三年(1863年)に結成されている。もともとは清河八郎が提唱した浪士組だったのだが、京都に到着するや、方針を佐幕から尊攘へ一変させたため、江戸へ戻る組と、京都残留組に分裂する。この時の残留組が京都守護職である松平容保の配下となり、新撰組と名乗るようになった。 もともと、浪士あがりや田舎の剣客といった、寄せ集めの連中の集まりだったために、これを束ね、組織化するために厳しい規律が必要だった。そこで新撰組副長である土方歳三が考えたのが局中法度と呼ばれる規律である。
内容の厳しさもさることながら、土方が徹底しているところは、実際に多くの隊士をこの法のもとに断罪し、切腹させ、あるいは処刑していったところにある。 当初は、芹沢鴨、新見錦、近藤勇の三人が局長を努めていたが、芹沢の素行の悪さ等が原因で、内紛がおこり、芹沢は近藤により暗殺(粛清)され、新撰組は、新体制となった。
元治元年(1864年)、この前年に京を追われた長州藩は巻き返しを図り、京への出兵を画策する。この動きに呼応して京に潜伏していた尊攘派の志士たちは、6月半ばの風の強い日を選んで御所を始め京都市中に放火し、天皇を奪って長州藩へ連れ去るという陰謀を計画する。 6月5日早朝、この計画の打ち合わせのために京に潜伏する長州藩の面々が集まるとの情報を、古高俊太郎を拷問(足の裏に五寸釘を刺し通された上、逆さに吊られ、火のついた百目ロウソクを立てられた、となっている)して得た新撰組は、出動。だが、この時点では、会合場所が池田屋、四国屋のどちらなのか分かっていなかった。 午後8時に会津藩兵と落ち合うことになっていたのだが、約束の時間になっても会津藩兵は現れない。午後10時ごろまで待っていたのだが、近藤が6人を率いて池田屋へ、土方が20数人の隊士を率いて四国屋に向かった。 この時池田屋に集まっていたのは、肥後の宮部鼎蔵、松田重助、長州出身で吉田松陰門下生の吉田稔麿、土佐の望月亀弥太、北添佶麿といった約30名。 「御用改めである。」 近藤は、沖田、永倉、藤堂、谷、近藤の養子周平、原田のたった7人で斬り込んでいった。 不意をつかれた志士たちも果敢に応戦はしたが、やがて到着した土方の隊も戦闘に加わり、会津兵も池田屋を取り囲んだ。激しい戦闘は2時間にわたり、宮部、吉田らが死亡し、他にも多数の死傷者を出している。尊攘派は、壊滅的な打撃を受けてしまった。この、池田屋事件により、維新が1年は遅れたと言われている。 慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いに敗れた幕府勢力が京都から江戸へ移ると、近藤以下新撰組の生き残りも大坂から江戸へ逃れた。江戸で官軍との戦闘に備えるためである。 東山道を攻め上がってくる板垣退助の軍を迎え撃つべく甲陽鎮撫隊を結成し、現在の山梨県勝沼の辺りで戦うも惨敗。近藤はなおも兵を集め、「大久保大和」と変名を使い、千住五兵衛新田(現・東京都足立区)、下総流山(現・千葉県流山市)などを転戦するも、ついに、隊を解散し、官軍へ投降する。同年4月25日、板橋にて斬首される。享年35歳。 副長の土方は、残った隊士を連れ、北へ向かった。仙台で榎本武揚ら旧幕府艦隊と合流し、北海道へ逃げ、箱館を攻略。その軍事的才能を見抜いた榎本により、樹立した「蝦夷共和国」の陸軍奉行並に選ばれる。 明治2年(1869年)の春、新政府軍は本格的な北海道攻略に着手する。大軍を繰り出した新政府軍に対して、土方は最期まで持ちこたえるが、本拠地の箱館を占拠されたため、やむなく5月1日、五稜郭に篭城。 5月11日、箱館市街奪回のため、およそ50人の精鋭を連れて出陣するが、大軍の前にはなすすべもなく、一本木関門で腹部に銃弾を受け戦死。享年35歳。この時点で新撰組は消滅したと言っていいだろう。 なお、この日の6日後の5月17日、五稜郭が陥落し、榎本軍が投降した。 |