7)日英同盟(日英同盟と日米安保条約)

 1902年に結ばれた日英同盟は、戦後(第二次世界大戦後)の日米同盟と同様に、日本の国益を守る上で大きな役割を担い、日本の国家進路を決した同盟である。もし日米同盟がなければ、戦後、日本が共産主義勢力の侵攻を防げたかは疑問である。同様に、仮に日英同盟がなければ、明治当時の日本がロシアの南下政策という脅威に直接さらされ、また列強の植民地支配が迫り来る中で、それらの力屈することなくすんだのかどうか疑問である。

 この項で「我が子に伝え」、日本青年会議所の会員諸兄にひとつのことを訴えたい。今記したとおり、両同盟はまさに国家の存続に多大な貢献を果たした。しかしまず、各々の締結に至る背景には同盟の「自主的な選択」という点で大きな相違があった。さらには同盟存続のためにどれだけの深慮を費やしたのかという点において、事務方はともかく政治家自身のそれには極めて大きな違いがあったと、私には思えてならない。日米同盟は現在も続く日本にとっての最大の支柱である。この支柱は今後も揺るがず、引き続き国家存続の支えになり得るのか否か。日英同盟はその意味で、日米同盟にとってその姿を照らし出す鏡になる。ここではその紐解きを試みたい。

 まず、政府首脳がいかにそれらを「選び取ったか」という点での両同盟の決定的な差異である。実は日米安保条約が締結された際の「情景」は、不思議なことに全く不明なのである。大方の日本人が想像するように、1951年9月、サンフランシスコで講和条約調印と同じく、日本政府代表団と米国政府代表が一同に会する中で締結されたのではない。条約の草案は講和条約草案とともに米国からわずか2週間前の8月4日に外務省に送付され、その内容は公開を一切禁じられていた。したがって、国民にはその中身は全く伝わっていない。講和条約調印の翌日、どうやら吉田茂一人のみがサンフランシスコ金門橋脇のプレシディオ海軍基地に、両脇をMPに押さえられるように連れていかれ、一般兵士の集会所らしき場所で調印したらしい。現に吉田の署名は名前のみで、日本国総理の肩書きは付されていない。つまり戦後日本の進路を決定した同盟のスタートは、日本国の意志が充分に働き、反映された上でのものとは言い難かった。

 一方、日英同盟の締結はこれと全く異なる契機をもつ。明治政府首脳に決断させる最大の誘因となったものは「三国干渉」だった。ロシア、ドイツ、フランスが遼東半島の清への返還を日本に迫った三国干渉。それが政府首脳に与えた印象は脅迫観念に近いものであったろう。陸奥宗光外相は干渉受諾に際し、「三国に対抗することは独力では不可能である」と述べている。国家の独立を担うことを使命とする政治家にとり、これほどの屈辱はない。列強の合従連衡の中、戦争に敗れた国家がすべての主権を失うことは、清の先例に明らかであった。当時の国際情勢の下では、国益の保全を図る上で同盟国の存在が必要不可欠だということを、明治政府首脳は心底から悟るのである。

 ここから、どの国とパートナーシップをもつべきかという慎重な模索が開始される。選択肢は「対露協調」と「日英同盟」だった。

 伊藤博文、井上馨、小村寿太郎ら政府首脳が戦略的にクールなリアリストだったことは強調されてよい。伊藤、井上は二つの選択肢の利点を見極めるという立場から当初日英同盟に慎重だった。そしてこの国家の岐路ともいうべき重大決定を前に、伊藤はロシア訪問を敢行する。伊藤の目的は唯ひとつ、「満漢交換」つまり朝鮮半島は日本の勢力圏、満州はロシアの勢力圏という線引きをロシアが飲むか否かを探ることだったのである。

 一方で明治政府は日英同盟の条約秘密交渉を続行しており、この伊藤訪露は英国を極めて神経質にさせた。しかし伊藤は自らがロシアから直接感触を得るまで、最終決断を保留するよう政府に釘をさしている。他方、外相の小村は二国を対象にした交渉が開始されるやいなや、まず英国がその歴史上、同盟が規定する約束を不履行にした経験があるか否かを外務省に徹底的に調べさせている。調査の結果、外務省は英国の履行度合を高く評価した。結果として、ロシアは「満漢交換」を拒否した。伊藤は日英同盟の選択に同意する。ロシアをインドへの関心から引き離し、極東に釘付けにさせたい英国の思惑。そしてロシアの脅威に対する一定の抑止力を得たい日本の思惑。両国の利益が均衡し、日英同盟は結ばれる。

 日露戦争を遂行する上で、日英同盟は大きく寄与したといえるだろう。だがそれは暗黙のうちにロシアを共通の脅威と想定していただけに、日露戦争後は同盟の目的そのものが希薄になっていき、1921年破棄されるに至った

 同盟は国益を保守する上でのオプションのひとつである。だがその選択は国益を大きく左右する力をもつ。先に記したとおり、日米同盟の締結に際してはどのオプションを採るかという判断の余地は日本になかった。にもかかわらず日米同盟が今日まで継続しているのは、ひとえにそれが国益に合致してきたからである。冷戦が終結し、日米同盟が想定したソ連という脅威は消滅した。だが東アジアには、中台問題、朝鮮半島情勢という日本の安全保障に大きな影響を与えかねない危機の萌芽が存在する。日米同盟が今後も続くのか否かはこうした戦略情勢の変化によって決まるであろう。

 英国の歴史家イアン・ニッシュが言うように「同盟がひとつの状態にとどまっていることはありえない」。日英同盟の締結に際して先人が示した冷徹な現実主義は、現代日本の外交に大きな範を示していると言えよう。

                   【目次】 【次へ】