第6話 天皇制とGHQ

1.天皇と政治との関わりあいの歴史

天皇制とGHQについて考えるにあたり、日本史における天皇の存在の考察は避けてとおれないであろう。よって古代から天皇について振り返ってみようと思う。

古代からとなると古事記(成立西暦712年)、日本書紀(成立西暦720年)(以下、記紀と称す)の応神天皇以前の記述を資料にしなければなるまい。ある学説によると記紀における応神天皇以前の記述は事実ではないとし、それらを神話と位置づけている。「神話」を基にした浅薄なスローガンや観念は一部で振りかざされ、先の戦争中国民をまとめる手段として利用された。その結果、「神話」は戦後、歴史教育から抹殺された。しかしながら、史実としての価値を無くしてしまった記紀における応神天皇以前の物語の舞台を訪れると、実際にそれらの出来事がその昔あったような気がすると多くの人が語る。伝説の地ではそれに纏わる遺跡、古墳、神社、その土地土地の伝説が数多くある。また考古学、民俗学、民族学の見地から「神話」を研究すると記紀の神話と呼ばれている領域の中に民族の感性上の真実及び史実と呼べるものもあるという。よってあえて神話の領域から天皇制を考えてみる。

神話では人々と日本国土を創造する為にイザナギとイザナミの命が出現した。二人は夫婦となり、大八洲(おおやしま)を始め神々を生み出した。
その後、イザナミは死に、黄泉(よみ)の国へ渡った。イザナギは後を追うものの、そこで争いが生じた為、一人帰ってきた。黄泉の国の穢れを祓った時、最後に誕生したのが天照大御神(あまてらすおおみかみ)、月読命(つくよみのみこと)そして建速須佐之男命(すさのおのみこと)の三貴子である。天照大御神は太陽神・女神で、天上高天原にあって最初の統治者となる。天照大御神は孫にあたる邇邇芸命(ににぎのみこと)に神勅を下し、天降って天の下を統治するよう命じた。その際、三種の神器(玉・鏡・剣)を邇邇芸命に授け地上統治者の証とし、その地位を絶対のものとしたという。そして、邇邇芸命の曾孫として初代神武天皇が登場する。

その第1代の神武天皇から第125代今上陛下まで万世一系の天皇が統治してきた国が日本である。今年は皇紀2660年を数えるまでになったという。この間連綿と皇統が絶えることなく続いてきたのである。

では、実際天皇は政治とどの程度関わってきていたのであろう。

ここに第16代仁徳天皇のエピソードがある。(日本書紀より)

ある日、仁徳天皇が高台に登って見渡されたところ、炊事の煙が少しもたちのぼっていない。これは民が飢えているのに違いないと、三年間課役を廃された。その為宮殿がいたみ、雨漏りもするようになってしまった。お后がそれを天皇に進言すると仁徳天皇は「それ天の君を立つるは、これ百姓(おおみたから)の為になり。然れば君は百姓を以(も)って本(もと)とす。」と仰せになったとある。

 この時期、天皇は政治に関わっていたと推察されるが、このエピソードから非常に大らかな統治が想像できる。勿論、古代史の中にはこのような大らかな統治ばかりではなく、皇位をめぐっての戦乱や民衆が圧制に苦しむ時代もあったと考える。しかし、長谷川三千子氏が「このエピソードこそが日本の伝統的な政治思想をあらわす言葉である」と述べているようにこれこそ天皇が日本国を統治する根源的な政治思想・理念であったのではないか。その後、大和朝廷では、畿内有力な氏の代表者による合議によって国政が行われた。飛鳥期に入ると摂政政治という形態も取りいれられた。例えてあげると推古天皇の時代、聖徳太子が政治を取り仕切っていたようなものである。天皇ではない聖徳太子が隋の国との交渉をしたのは有名な話である。

国民の歴史より P255
右の日本の行政組織のみ

「天皇制を問う」の「古代国家における天皇の権力」(直木孝二郎氏著)では
本来、天皇は専制権力を志向しており、天皇の権力が豪族を圧倒するに至っていないときは、豪族と協力し、豪族の意見を尊重する形をとっていたと思います。(略)専制君主制と、天皇権力を抑制しようとする貴族制の妥協として、律令制ができたのではないでしょうか。天皇が全国を支配しようとすれば諸豪族の力を借りねばならない。諸豪族も支配階級としての地位を保とうとすれば天皇の権威を借りねばなりません。もちつもたれるの関係から一種の妥協が起る。その結果が古代の律令国家ですが、そこでも天皇はたえず専制権力を持とうとし、豪族はそれをチェックしようとした。

「天皇制を問う」(の「古代国家における天皇の権力」)(直木孝二郎氏著)

また、天皇は独裁的な権力は通常持ち合わせてはいなかったという説もある。

西尾幹二氏著書の「国民の歴史」では、そのことを太政官制度(右図参照)にて説明している。太政大臣は最高の官で、養老令には「太政大臣一人、右一人に師範たり」とあり、この一人とは天皇を指しているとされている。天皇の師範でさえあるという意味であるとのことである。

このように、この時代のことは説が種々あるようである。ある説ではあくまでも天皇が統治者であるとするし、ある説では古代から天皇は象徴であったというようにである。筆者は歴史学者でもなく専門家でもないゆえ、真相はどうであったか定かなところの断定は出来ない。

さらに時代が下って、平安時代には藤原氏が台頭し臣下で始めて藤原良房が太政大臣に任ぜられたりしている。その後、武家が実権を握る社会へとつながっていくのである。鎌倉時代から江戸時代までの間、南北朝時代を除いて天皇が政治の表舞台にはたってはいなように筆者は考える。

さらに明治期に入って大日本帝国憲法が制定された。憲法条文では「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」で、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラズ」とし天皇を宗教色の強い存在として示している。条文は「臣民は〜」という文言に始まり、天皇が臣民へ問い掛けるような形式をとっている。しかしながら五箇条の御誓文に「広ク会議を興シ万機公論ニ決スヘシ」とあるように天皇は独裁的な権限を有しているわけではなかった。

戦後の日本国憲法は4)に記述するが、第一条に「天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴」と記述されている。天皇は政治と一線を画す存在となっているのは周知のとおりである。

以上、ある時代から、天皇は権威の象徴であり、政治を司る権力は他にあったように考える。そして武家が政権を握って以来、この権威と権力の二重構造は顕著になったのではないか。このことは将軍を始めとする官位は常に朝廷が授ける形式となっていたことからも窺えるのではないか。

 西尾幹二氏は「日本史には朝廷と幕府の二元体制という、空白をつくらない権力交代の“安全装置”があった」と書している。この二重システムこそ日本人の英知なのだと考える。

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