4)現行憲法での天皇

日本国憲法1条は「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」

 ここでいう象徴とは一体なんであろう。第2章第5部で憲法制定の経緯について記してあるとおり、もともと現行憲法はアメリカ製である。よって、先に文章となった英語で憲法を読む方がわかり易い個所があるという。象徴は英語で“Symbol”と記してある。

 今度は逆にSymbolという辞書を引くとこう記してある。
「象徴・表象 思想や性質などの抽象的なものを表わすために選ばれたもの;特にその形態が内容と似ているかとか特別の関連があるとは限らない」。
この部では日本の「象徴」とはについて考えてみようと思う。
憲法上、天皇の役割として下記が制定されている。
「天皇は国会の指名に基いて首相を任命。また内閣の使命に基いて最高裁長官を任命」
 よくテレビで見かける、宮中においてモーニング姿で天皇から奉書を首相が頂いている光景である。これは本文、第1部で述べた権威と権力の二重システムではないか。時代が変わっても、たとえアメリカ製の憲法となっても、天皇の役割はそう変わってはいないということにつながるのではないか。これはかなり特異なことである。世界史において王制は武力によって政権を握り、また武力によって交替を余儀なくされてきた。わが国では武家が権力を握った後も天皇は君主であった。それより先、平安時代において既に藤原氏は摂関政治を敷き権力と権威の二重システムを取り入れたと考える。権力を握った天皇もいれば、権力を持ち合わせない天皇もいた。肝心なことは、天皇が権力を握っていても握っていなくてもいつも日本の中心には天皇がおられたことである。そして日本史では、時代が大きく変革する時に天皇を中心軸とする円の中心方向へ向かう力が強まる。この時代が大きく動く時こそ、いわば一大事なのであって、その時々の天皇は日本の進むべき道にあって重要な存在であった。

四方拝の絵 新嘗祭の絵

西尾氏は「国民の歴史」で「天皇は徳があることに越したことはないが、それが天皇の位の絶対条件ではなかった」と述べておられるが、極端なことを言うと平時において天皇は何もしなくてよいのである。では天皇は何をしていたのかというと、祭祀者としてのお役目がある。皇祖神、天照大神を崇敬し、いわゆる日中行事や年中行事、さらに臨時の行事においても常に第一にお祭りしてきた。毎朝に行われる御拝は宇多天皇(890年)から確かに行われてきたという。明治以降侍従による御代拝となったが、今日に至るまで千年以上続いている。また平安時代以降の年中行事を見ても天孫降臨の神話と密接な関係がある新嘗祭や、元旦の四方拝をはじめ数多くの行事が今なお厳格に続けられている。では皇祖神を崇敬するとはどういうことかと言うと、生命の連続性への感謝である。

 我々は日々生活していて、生命の連続性について忘れがちになってはいまいか。我々が今ここに存在しているのは、祖先から脈々と生命が連続しているからに他ならない。

 それを最も身近に自覚し畏敬、感謝の念を抱いてお祈りしておられるのが皇室の方々であろう。日本は島国で二千年来、幸運にも異民族に侵されることもなく過ごしてくることが出来た。一人の人間を産むには二人の親が必要、二代前には四人の祖父母、三代前には八人の曽祖父母と計算すると十代前までは千人台に、二十代前には百万人台、三十代前には十億人台に達する。日本人の血が流れている人は誰でもどこかで天皇とつながっているという。その皇室が生命の連続性を日々感謝しておられる。その生命の連続性の中には祖先への感謝だけでなく未来の人々に対する思いも含まれているであろう。五穀豊穣(自然の恵み)、国家の安定、そして世界平和なしには、生命の連続性はありえない。それらは国民の最も希求するものではないか。日本を代表してそのようなことを天皇が祈る行為そのものが憲法で言われる「象徴」であると解釈する。

【余談】

これを執筆するにあたり、天皇制の起源を神話から記述した。
 戦前は天皇を神聖な存在とする目的で神話を誤った解釈で教育現場に持ち込んだ。その為民主主義を推進しようとするGHQにとって障害となると判断された神話は戦後、教育現場から抹殺された。GHQにとって神国ニッポンはどうしても消し去れなければならなかった概念である。しかしながら、神話の世界では日本が他の国と比べて勝っているなどと一言も触れてはいない。欧米人にとって神=GODとは唯一神であり、日本人が考える神の概念とは違う。日本人は森羅万象全てを神と考えている。神は天に、山に海に森にはたまた屋敷の中にもおられる・・・・。そのように日本人は神をとらえている。ましてや戦前において天皇を人間ではなく「神」そのものだと思っていた人などいないと考える。現人神であると解釈していたとしても、決して天皇だけを神とは思ってはいなかったはずである。この異文化が欧米人には理解出来なかったのではないか。GHQは神=天皇の図式をそっくり消し去ろうとした結果、神話は歴史教育から抹殺されてしまった。

 だが、昨今の考古学、民族学、民俗学の発展に伴い、それらの見地から古代史の研究が盛んに行われている。戦後50年以上過ぎた現在、GHQからの呪縛を解き、記紀神話を歴史教育として見直していい時期になったと考える。教育とは教え育むものである。その教育は五感で体感するものであるのが真の姿であろう。神話を読むと、その五感で体感するところがとても大きいように思えてならない。住んでいる身近な場所から、はたまた旅をすることによってそれらの五感を磨くことこそ教育上重要な要素であると考え、あえて神話を記述した。

 さらに、天皇制度の考察はあくまで筆者の考えによるものであり、その判断の正否は読者にまかせることにしようと思う。

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