第2話 平和条約締結と日本が行った戦後補償

1)平和条約締結

 昭和26年(1951年)9月4日から8日までの日程で、サンフランシスコにて対日講和条約諦結のための会議が開かれ、52カ国が参加した。

 日本に対する最大の交戦国だった中国については、毛沢東の中国共産党が支配する中華人民共和国を呼ぶか、蒋介石の国民党が支配する中華民国を呼ぶかで、イギリスとアメリカの間で意見が割れたため、招請状がどちらにも出されなかった。5日にソ連全権(グロムイコ外務次官)は、条約の修正案を提出し 中国代表の参加を要求したが拒否された。これに対して中国の周恩来外相は中国不参加の対日講和条約は非合法であり無効であると声明。

 インド、ビルマ、ユーゴスラビアの3国は、アメリカ軍の日本からの撤退、台湾の中華人民共和国への返還を要求し、出席を拒否した。また会議に出席したソ連、チェコスロバキア、ポーランドの三国は新しい戦争のための条約であるとして調印を拒否。9月8日の調印ではそれら3国を除いた日本を含む49カ国が調印した。

 対日平和条約の中で、現在まで緒を引いている問題のひとつに第二章 領域 の第二条がある。それは日本が権利を放棄する地域を決めているのはいいが、その帰属については何も規定していないことである。特に(b)項の台湾、澎湖諸島及び(c)項の北方領土については今日に至っても未解決のままであり、対中ソへの問題を現在にまで残す条文となっている。

(c)項については日本とロシア(旧ソ連)が、昭和31年(1956年)の日ソ共同宣言で国交を回復したものの、いまだに平和条約を結べないでいるのは、択捉、国後、歯舞、色丹の北方四島をめぐる領土問題が解決されていないからである。北方領土に関しては、第4話北方及び南方の領土問題に詳細を述べる。

 昭和20年7月17日〜8月2日、ドイツのポツダムで日本の降状条件を決めるためのポツダム会談がスターリン(ソ連)とチャーチル(英)・トルーマン(米)の出席のもと行われた。

 この会談に基づいて「米・英・中 三国宣言」がチャーチル・トルーマンと蒋介石の名によって発表された。一般にはポツダム宣言といわれている。この会談の時、ソ連はまだ日本と戦争状態にはなく、対日戦線に入った段階でこの宣言に加わることになっていた。そのためヤルタ会談の時ドイツ敗北の3〜4カ月後にソ連が対日戦線に参戦するという秘密協定があり、スターリンはその秘密協定通り8月8日参戦したというのである。しかしポツダム会談に入って、まもなくアメリカは、原爆実験に成功し、アメリカとイギリスは、ソ連の参戦は不要だと考えていた。しかしスターリンは、戦後処理の政治的な計算も含め参戦したのである。

 その後、日本は8月14日、天皇がポツダム宣言を受諾する意思表示をし、9月2日ミズリー号上で、最終的に連合国との降伏文書に調印した。しかし、日本がポツダム宣言を受諾し、8月15日以降、全ての武装解除を始めたにも関わらず、ソ連側の「9月2日までは戦闘状態であるから、我々はそれまでに歯舞諸島や他の3島を占領したのであり、何も間違ったことはしていない」というのは、どうしても理解できないところである。

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