1)北方領土

(1)北方領土の第2次世界大戦までの領有権

 北方領土とは歯舞群島(はぼまいぐんとう)・色丹島(しこたんとう)・国後島(くなしりとう)・択捉島(えとろふとう)の4つの島を言う。北海道根室半島、納沙布岬と知床半島の間から、ソ連領のカムチャッツカ半島の方向に飛び石のような形で続いており、北海道本島から一番近い歯舞群島の貝殻島までは3.7km、一番遠い択捉島でも109.6kmの距離しかない。1855年2月7日アメリカとの通商開始に伴いロシアとの通商の開始日露通好条約が提携され、全9条の第2条に「今より後、日本国と魯西亜国(ロシアコク)との境、エトロフ島とウルップ島の間にあるべし。エトロフ全島は日本に属し、ウルップ全島、夫より北の方クリル諸島は、魯西亜に属す。カラフト島に至っては、日本国と魯西亜国の間において、界を分かたず、是まで仕来の通りたるべし」と歯舞群島・色丹島・国後島・択捉島の4つの島は友好的な雰囲気の中、日本の領土であることが明記された。しかしこの時、唯一、樺太を共同の雑居地としたことで火種を残す結果となり、日露両国間で紛争が絶えなかった。ロシア側は樺太に囚人を送り込み、軍隊を駐屯させたが、日本側は幕末維新の騒乱などもあって樺太に対する援助が十分でなく、ロシア人による日本人家屋の焼き払いなども行われた。このような事態を受け、1875年(明治8)樺太・千島交換条約が結ばれ、日本は樺太を放棄する代わりに、得撫島から占守島(シュムシュ)までの千島列島をロシアから割譲された。さらにオホーツク海とカムチャッカ沿岸の入港や漁業の従事に関して、日本国民にロシア国民と同様の権利と特典を与えたのであった。その後1905年日露戦争に決着をつけたポーツマス条約により、北緯50度以南いわいる南樺太がロシアから日本に割譲され、この後40年間北方4島は継続して日本の領土であった。

(2)北方4島の侵略

 1941年4月13日、日ソ中立条約が結ばれ、期限は5年間として期限終了の1年前に廃棄を通告しない場合はさらに5年間延長されと言うものであった。その年8月ドイツ軍のポーランドへの侵攻により第2次世界大戦が勃発し、1945年ソ連は日ソ中立条約の廃棄を通告したが条約の規定通りなお1年間の有効期限(1946年4月)をも言明した。しかしソ連は同年2月米英両国とヤルタ協定を結び、戦争への参戦の代償として「樺太の南部及びこれに隣接するすべての島々をソ連に返還し千島列島はソ連に引き渡される」と密約していた。1945年8月9日、ソ連はヤルタ協定にのっとり対日参戦した。同年8月14日、日本がポツダム宣言を受諾し、無条件降伏を決めた後の18日、ソ連軍は占守島へ上陸、31日までに得撫島を占領し、最終的には北海道の北半分(釧路と留萌を結ぶラインから北)を占領することを目標としていたが北海道はアメリカの強硬な反対を受け断念した。しかし北方4島に米軍がいないことを確認すると、ソ連軍はそこに兵力を集中させ、8月28日に択捉島、9月1日色丹島、2日国後島、3日には歯舞諸島、5日には北方4島の占領を完了した。占守島を除く全ての島では日本軍はいっさい抵抗せずに占領は完全に無血で行われ、さらには9月2日ソ連は平和条約もないまま千島列島北方4島は自国の領土であると宣言をしていた。一方、北方4島にすんでいた人たち1万7000余名の日本人は1948年までに強制的に島を追われたのであった。

(3)協定違反・約束違反

 ソ連は北方領土問題について、ヤルタ協定を引き合いに出すがヤルタ協定並びにカイロ宣言では「第1次世界大戦で得た太平洋の諸島、満州、台湾および澎湖島、朝鮮、そして暴力及び貪欲により日本国が略取した他の全ての地域から追い出さなければならない」としており、平和的に元々日本の領土であった北方4島は該当しない。さらにヤルタ協定は当時の連合国の間で戦後処理の方針を述べたにすぎなず、最終的な連合国の決定ではない。さらにヤルタ協定自体に日本が参加していないのでこの協定に日本が拘束されないのである。ヤルタ会談に参加していた米ソ軍事代表団が密かに作成した「クリル列島分割地図」が97年秋、米国公文館で発見された、そこには米ソが対日戦における軍事行動の範囲を定め、ソ連は北千島4島のみを占領し得撫島までの千島列島と北方4島は米軍の占領するところになっており、北方4島の占領は米ソの密約までも無視しているのである。

(4)サン・フランシスコ講和条約

 1951年9月、連合国48カ国と日本の間で、サンフランシスコ講和条約が締結されるが、北方領土に関しては第2条で日本は1905年のポーツマス条約で獲得した南樺太及び千島列島を放棄する事とされたが、ソ連はこの条約に調印しなかった、ちなみにこの条約25条には条約に署名批准しない国は連合国とは認められないとあり、ソ連は日本から領土を獲得する権利はないことになる。

 またこの条約で北方領土の問題を曖昧にしているがこれには米国による琉球諸島や小笠原諸島の支配に対する批判逃れや、日ソ関係の接近を妨げるべく意図も見え隠れする。

(5)現在もなぜロシアは4島を支配するのか

 日本は国土を海に囲まれ他国との国境がはっきり分かれており、たとえ戦争で他国の領土を占領しても、日本本土は広がることはないが、ソ連などの国々ではいにしえの時代から民族間の領土争いが続いており、領土は戦争によって得るもので、戦争に負けなければ領土を手放す訳にはいかないと考え方の違いも多く影響している、さらにソ連は現在でも他の国々の領土を占領しており、日本に返還をした場合他の国々からも同じような請求を受けることになり、戦争によって領土を広げることが世界の国々に非難を浴びる現在、領土を簡単に手放すわけにはいかないであろう。

日露通好条約
1855年(安政元年)、伊豆下田において「日露通好条約」が締結されました。 この条約で初めて日ロ両国の国境は択捉島と得撫島の間に決められ、 択捉島から南は日本の領土とし、 得撫島から北のクリル諸島(千島列島)はロシア領土として確認されたのです。 また樺太は今までどおり国境を決めず両国民の混住の地と定められました。

 

 

樺太千島交換条約
1875年(明治8年)、明治政府は、樺太千島交換条約を結び、樺太を放棄する代償としてロシアから千島列島を譲り受けました。 この条約では、日本に譲渡される千島列島の島名を一つ一つあげていますが、 列挙されている島は得撫島以北の18の島であって、択捉島以南の北方四島は含まれていません。

 


ポーツマス条約
1905年(明治38年)、日露戦争の結果、ポーツマス条約が締結され北緯50度以南の南樺太が日本の領土となりました。

 

 

 

 

サンフランシスコ平和条約
1951年(昭和26年)、日本はサンフランシスコ平和条約に調印しました。 この結果、日本は千島列島と北緯50度以南の南樺太の権利、権限および請求権を放棄しました。 しかし、放棄した千島列島に固有の領土である北方四島は含まれていません。

 以上北海道公式ページより転載

 

http://www.pref.hokkaido.jp/soumu/sm-hrtsk/hp/history.htm

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