3.竹島問題

(1)竹島

 島根県隠岐島北西85海里(北緯37度9分、東経131度55分)に位置する。

東島(女島)、西島(男島)と呼ばれる二つの小島とその周辺の数十の岩礁からなり、総面積は約0.23平方km(日比谷公園とほぼ同面積)で、我が国では古く「松島」の名によって今日の竹島がよく知られていたことは多くの文献、地図等により明白である。(例えば、1650年代に伯耆藩(鳥取)の大谷、村川両家が「松島」を幕府から拝領し経営していたという記録があり、また、経緯線投影の刊行日本図として最も代表的な長久保赤水の「改正日本輿地路程全図」(1779年)では現在の竹島を位置関係正しく記載しており、その他にも明治に至るまで多数の資料がある。)

1905年(明治38年)2月には、閣議決定及びそれに続く島根県告示により、日本政府は近代国家として竹島を領有する意志を再確認している。

 また、対日平和条約前の一連の措置は、いずれも日本国領土の最終決定に関するものではないと明記されており、竹島が日本の領域から除外されたものではないことは明白である。そして、もとより我が国の領土である竹島はカイロ宣言に言う「暴力及び貪欲により略取した地域」にあたらずない。(注:1954年(昭和29年)9月、我が国は本件問題につき国際司法裁判所に提訴することを提案したが、韓国側は右提案を拒否。なお、日韓両国間では国交正常化の際に「紛争の解決に関する交換公文」を締結。)

(2)韓国の主張 

 竹島の東島に1954年7月頃から韓国警備隊員(警察)が常駐し始め、 宿舎、燈台、監視所、アンテナ等が設置され、年々強化されており、 1996年2月8日、外務部は竹島に接岸施設の建設を行う旨発表した。

 一方、15〜16世紀頃の古文献には、于山島又は三峰島という名で竹島の記述があり、(注:于山島や三峰島が竹島に該当していることを実証できる積極的根拠はない。むしろ、右文献はそれが竹島でないことを示す。)また、1905年の竹島編入の島根県告示は、一地方官庁により隠密裏に行われたものであり無効であり、またこの編入は、日本がそれまで竹島をその領土の一部と考えていなかった有力な証拠であると主張するが、告示は正式に公示された上、新聞報道もされており隠密裏ではなく、竹島の島根県編入は歴史的根拠を踏まえて近代国家の行政区分に組み入れ、領有を再確認したものと言える。

 また、戦後の対日占領政策実施にあたり、1946年1月29日付総司令部覚書第677号が、小笠原諸島等の若干の外郭地域の日本からの分離を行った際、竹島は日本領土から分離され、日本漁船の操業区域を規定したマッカーサーラインの設置にあたっても、竹島がその線の外におかれた。また、1943年のカイロ宣言にある「日本は、暴力及び貪欲により略取した一切の地域より駆逐さるべし」の規定は、島根県編入という侵略行為によって日本に併合された竹島にも適用ありと主張する。

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