4)20世紀とは如何なる世紀であったのか

 20世紀は、共産主義が一時は世界を制圧するがごとき勢いで猛威を振るった世紀であった。共産主義は、単なる政治形態の一つではなく、むしろ新宗教の一種と見ることができる。その起源は、フランス革命の理論的支柱となったルソーであり(注)、その妄想性、破壊性は、ロベスピエールによるギロチンの恐怖政治(処刑された者2万人、革命全体による犠牲者は200万人)を生み出した。さらにこの新宗教は、サン=シモン、ヘーゲル、フォイエルバッハらの理論を取り入れて補強され、マルクス、エンゲルスおよびレーニンにより、「ユダヤ教」の教義やロシア正教の「メシアニズム」を加味して完成された。
 共産主義者は、自らの宗教を唯一絶対の真の宗教とみなすがゆえに、他のいかなる精神世界も決定的に否定する。国民を信者と非信者に分け、異端を破門にしたり極刑に処する。伝道者として、レーニン、スターリン、毛沢東、ポルポト、チャウセスク他がいる。

(注)デカルトについて

 筆者はいわゆる社会主義的人間観の始まりとして、デカルトにみられる「個人主義」をも視野に入れるべきと考える。デカルトは「方法序説」の中で「自己の肉体を含む全ての世界は幻影と仮定する事ができるが、今ここにそれを疑っている自分の理性が存在することは否定できない」とし、自我を思索の第一原理とした。リベラルを自認する人々が、「我思うゆえり我あり」を近代的自我の発見と呼び、デカルトを近代哲学の父と賞賛する所以である。
 しかし見方によっては、
デカルトにはじまる、西欧近代の「自己中心主義・理性万能主義的」な誤った人間観が、共産主義、社会主義よりもも「根深い現代日本の病巣」となっている気がしてならない。なぜならば、人間は「我思う」と思索する以前から、先祖の生命を受け継いで存在し、天地の恵みと親の愛情に育てられているからである。どんな天才であっても、人間各自の判断そのものは自然環境や社会での経験を多分に享けて訓練されるものである。自己の理性だけを絶対視し、演繹の出発点とするデカルトの「合理論」には、人間を社会環境や過去の経験(歴史と呼んでも良い)から遊離させ、また生命の源である先祖から隔離する構造が、遺伝子のレベルに組み込まれていると筆者は考える。
 デカルトによる浅薄な人間観は、後にマルクス主義の「人間存在を利己的・経済的なもの」としか見ない人間観や、前衛党の独裁を至上とする左翼エリート主義に色濃く投影されている。
この人間観の延長として、戦後日本の教育では「個人の権利」や「極端な平等主義」ばかりが強調され、「公共心」や「国家観」、「社会の絆」、あるいは「親子や師弟の絆」までもこれに敵対するものとして追いやられてきた。特に学校教育においては、歴史教育と道徳教育において顕著な問題があり、現代社会のはらむ矛盾は「教科書問題」に最高度に集約されていると考えられる

 共産主義は、大衆主義であるがゆえに、大衆を扇動し、大衆の代表者を「騙る」特定の指導者が、「人民の(一般)意志」と称して、恐るべき独裁を行うことを共通の特徴とする。その結果、強制労働収容所と処刑と圧政の組合わせにより、何千万と言う無実の人々を抹殺すると言う狂気を世界中で繰り返してきた。「いかなる共産主義体制も超独裁」であり、共産主義独裁者の犯した犯罪は、いわゆる通常の戦争犯罪の比ではない。スターリンの粛清や毛沢東の文化大革命などは、自分の意に添わない「自国民に対して」、「非戦闘時に」行われたのである。彼らは共産主義の運用を誤ったのではなく、神に代わる新宗教の忠実な実践の結果、当然の帰結として恐るべき犯罪を実行したのである。

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