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20世紀は、共産主義が一時は世界を制圧するがごとき勢いで猛威を振るった世紀であった。共産主義は、単なる政治形態の一つではなく、むしろ新宗教の一種と見ることができる。その起源は、フランス革命の理論的支柱となったルソーであり(注)、その妄想性、破壊性は、ロベスピエールによるギロチンの恐怖政治(処刑された者2万人、革命全体による犠牲者は200万人)を生み出した。さらにこの新宗教は、サン=シモン、ヘーゲル、フォイエルバッハらの理論を取り入れて補強され、マルクス、エンゲルスおよびレーニンにより、「ユダヤ教」の教義やロシア正教の「メシアニズム」を加味して完成された。 (注)デカルトについて 筆者はいわゆる社会主義的人間観の始まりとして、デカルトにみられる「個人主義」をも視野に入れるべきと考える。デカルトは「方法序説」の中で「自己の肉体を含む全ての世界は幻影と仮定する事ができるが、今ここにそれを疑っている自分の理性が存在することは否定できない」とし、自我を思索の第一原理とした。リベラルを自認する人々が、「我思うゆえり我あり」を近代的自我の発見と呼び、デカルトを近代哲学の父と賞賛する所以である。 共産主義は、大衆主義であるがゆえに、大衆を扇動し、大衆の代表者を「騙る」特定の指導者が、「人民の(一般)意志」と称して、恐るべき独裁を行うことを共通の特徴とする。その結果、強制労働収容所と処刑と圧政の組合わせにより、何千万と言う無実の人々を抹殺すると言う狂気を世界中で繰り返してきた。「いかなる共産主義体制も超独裁」であり、共産主義独裁者の犯した犯罪は、いわゆる通常の戦争犯罪の比ではない。スターリンの粛清や毛沢東の文化大革命などは、自分の意に添わない「自国民に対して」、「非戦闘時に」行われたのである。彼らは共産主義の運用を誤ったのではなく、神に代わる新宗教の忠実な実践の結果、当然の帰結として恐るべき犯罪を実行したのである。 |