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2)江戸時代の伝統文化と誇るべき学問の水準 現在、日本の伝統文化といわれるものの多くの形態が確立されたのが江戸時代である。江戸時代には、鎖国体制が整い、長崎だけがオランダ・中国船に開放され、仏教は寺院が幕府の地方統治作の一貫として制度的に普及、また、公家や武家も幕府の統制下におかれ厳しい幕藩体制が固められた。 儒学は官学となって栄え、幕府直轄の学問所の昌平坂学問所(今の湯島聖堂)が開設。それをきっかけに諸藩でも藩校が始まり、庶民の初等教育のために私立教育機関「寺子屋」も普及し始める。江戸末期には、全国に一万を超える寺子屋があり、読み書き、そろばんが教えられていた。 また、幕藩体制の整備は、全国的な交通網の発達を促し、農作物の商品化や流通を盛んにし、それによって、町人階級の経済的、社会的地位が著しく増大した。 <文学> 元禄の三大作家、井原西鶴(浮世草紙)松尾芭蕉(俳諧)近松門左衛門(人形浄瑠璃)など、町人階層の開放的なエネルギーに支えられた作品が隆盛する。 <歌舞伎> 日本独特の古典演劇といわれる歌舞伎は「風流」といわれる民族舞踊が盛んになり、その後演劇として近松門左衛門ら専門家によって戯曲が書かれるようになり「元禄歌舞伎」といわれる黄金時代をむかえました。人気俳優の衣装や髪型は流行を生み、役者は浮世絵や商標のモデルとなった。 <絵画> 寺社、城郭など大建築には障壁画が盛んで狩野探幽が幕府の御用絵師となって以来、大名は狩野派画家を召抱えることが、全国的な傾向となった。 <浮世絵> 江戸ではまったく新しい市民文化として、既成の画派に属さない新興の町絵師が登場した。町の風俗、役者画や美人画などを題材にした浮世絵は、版式も墨一色ずりから丹絵、紅絵、漆絵、紅摺絵、多色筆彩の錦絵と進み、工程も絵師、彫り師、摺り師、問屋と協同作業となり、技術の向上もめざましいものだった。 <工芸> 陶芸制作は、朝鮮からの帰化人が有田で白磁器の焼成を始めて伊万里焼として確立して以来、京焼、九谷焼、鍋島焼、瀬戸焼など各地に及び、染織では、武士の裃に多く用いられた江戸の小紋染や京都の友禅染などを生み出した。また、米沢、桐生、伊勢崎、秩父などの地方では献上するために特色ある織物がつくられた。日本各地で木綿の栽培が行われ、庶民の衣服が麻から木綿へと移りかわったのも当時だった。漆工、金工、木工、竹工なども同様に各地で発展し、江戸末期にはガラス工芸が始まる。 日本美術の中では中心ではなかった浮世絵や絵画、彫刻、ファッションは、江戸末期に欧米に紹介されて人気を呼ぶ。特に印象派へ大きな影響を与え、「ジャポニスム」と称されるほど多くの作品に日本趣味を強調させたモチーフが登場した。 また江戸時代は、参勤交代の厳しい制度の中で、地方文化の確立と、政治の中心としての江戸の文化の確立が成され、その形態が今に至っているものが少なくない。「地方の時代」といわれて久しい昨今だが、地方の関係はまさにこのころと共通する側面をもっているように思われる。 ただし、町人のありあまるエネルギーによって支えられた多くの作品とともに、行き場のないエネルギー(憤りやかなしみ)を作品として残したものも数多くあります。 また地方には、産業や流通ルートの確立によって、大商人、豪農となった家もあります。貧富の大きな格差を生みだしたが、当時の消費生活水準を偲ばせる資料として調度品など贅を尽くした品々が残されている。 日本人の美徳とされている 「義理、人情」「いき」「だて」といった精神文化は、江戸時代に育まれたものである。新しいものと古いものとが交錯し、流行や情報に敏感だった江戸時代の文化。言わば、文化面での「温故知新」を実践したのが当時の人々だったのではないだろうか。 |