3)鎖国について

 幕府は、当初キリスト教を禁止しつつも、貿易を積極的に行っていた。
 しかし、カトリック教徒は異教徒を排斥し、宣教師が本国の植民地政策に協力することが多かったうえに、キリスト教徒の中にはどんなに迫害を受けても改宗しない者が多く、かつ、信者の団結心も強かったことから、キリスト教は、幕府及び諸藩にとっての脅威であった。
 また、貿易が盛んになると商工業が発達し、貿易に関係する西南大名及び豪商が巨大化して、幕府の支配力が弱体化するため貿易を統制する必要があった。
 そこで、幕府は、慶長17年(1612年)に天領でキリスト教禁止令を発令し、慶長18年(1613年)には禁教令が全国に及び、元和2年(1616年)には、ヨーロッパ船の寄港地を平戸と長崎に制限し、寛永元年(1624年)には、イスパニア船の来航を禁じ、寛永10年(1633年)には、奉書船以外の渡航を禁じ、寛永12年(1635年)には、海外渡航禁止、帰国禁止令を発令した。
 そして、寛永14年(1637年)島原の乱が起こり、その中にキリスト教徒が多かったことから、寛永16年(1639年)にポルトガル人の来航を禁止して、鎖国体制を完成させた。
 
また、オランダが対日貿易を独占するため、ポルトガル・スペインと戦い、イギリス・フランスが対日貿易を始めようとすると幕府に通報して未然に阻止するなど、徹底的に排他的な活動を行い、鎖国体制の実現を助長した。

 鎖国を行っても当時の日本の輸出入品は、国内産業と広く結びついていなかったばかりか、オランダを通じて必要な物は輸入できたので、強いてオランダ以外のヨーロッパ諸国と交易する必要性がなく、他方、ヨーロッパ諸国も、極東の日本を力づくで開国させる必要性がなかったため、日本は鎖国体制を維持することができたのである。
 鎖国体制の確立により、幕藩体制が強化され、日本は長期にわたり平和な時代が続くことになり、また、国内産業が発達し、国民文化が成熟するなど、日本独自の産業・文化が発達した。

 鎖国体制を確立した当時の日本国内の事情及び世界の情勢からすると、鎖国体制自体決して悪いものではなく、日本のアイデンティティを維持することに貢献したものと思われる。
 すなわち、対外的には宗教による植民地政策から日本を守り、対内的には幕藩体制の基盤を固めたことにより長期に渡る平和な時代を確立し、日本独自の産業・文化の発展に寄与したのである。
 確かに、世界の情勢から脱落したとのマイナス面もあるが、どんな体制ないし制度も時代の流れから制度疲労を起こすのは当然であり、ましてや二百数十年間も続けば、どうしても時代の流れにそぐわなくなってくることは、蓋し当然とも言える。
 むしろ、二百数十年間も平和な時代を続けてこられたことや、鎖国体制時に発展した産業・文化が、開国後の日本の中心的な産業となり、文化も海外で高く評価されたことの方が強調されるべきではないであろうか。
 このような鎖国体制は、大きな視点からすると日本のその後の発展に貢献しており、それが様々な試行錯誤を経て今日につながっていることから、当時の政治体制としては高く評価されるべきものではなかろうか。

(尚、本冊子においては、便宜上、「鎖国」の表現を使用するが、「鎖国」の用語使用については『「国民の歴史(p402)」西尾幹二著』に詳しいので参考にされたい。) 

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