5)条約改正

 開国以降の日本は、従来の外交関係とならんで、欧米諸国との新たな条約関係に入ることになったが、ここでの条約(第3話の2項で記述)とは、治外法権、関税自主権の欠如、片務的最恵国待遇といった条項をともなう不平等条約であり、憲法(大日本帝国憲法)の制定と併せて、「条約改正」は明治政府の重要課題であった。

 明治4年(1871年)の岩倉使節団は、政府の全権委任状を持参しておらず(あわてて大久保利通と伊藤博文が一時帰国して携えるも)交渉に失敗。使節団帰国後、外務卿に就任した寺島宗則が、あらためて条約改正の試みを開始。米国との交渉を比較的順調に進め、明治11年(1878年)7月には「日米新通商条約」を成立させるも、英国の非難と圧力によって、新条約実施のめどもなくなる。

 治外法権撤廃の声が世論として高まる中、明治12年(1879年)寺島に代わり井上馨が外務卿に就任、改正交渉を開始。明治15年1月から7月までの間に、通算21回にわたる条約改正予備会議を開催、途中、甲申事変などに忙殺され、条約改正案が各国の了承を得て第1回合同会議が開催されたのが明治19年5月1日。翌明治20年4月22日の第26回会議で、新しい通商条約、修好条約の成案がほぼ合意に至った。

 しかしながら、鹿鳴館の仮装舞踏会への非難、政府のお雇い外国人ボアソナードの意見書に伴なう反対論、外交政策の挽回もかかげた「三大事件建白運動」など、反対運動は民族主義的な反発のエネルギーによっていっそう活性化し、明治20年7月、井上はやむなく各国に条約改正交渉の無期延期を通告、9月には外相を辞任し挫折することとなる。

 政府が「保安条例」を発令し三大建白運動を終焉させた後、明治21年(1888年)2月には大隈重信が外相に就任。大隈は井上のあとを引き継ぎ、明治22年には主要大国との交渉をほぼ終了するも、爆弾テロにあって片足を失い、黒田清隆首相の辞職と共に辞任し、大隈の条約改正交渉もここで頓挫する。

 その後、英国がロシアの東アジア進出を警戒して日本に好意的になり、青木周蔵外相が改正交渉を再開。しかし、青木も明治24年(1891年)の大津事件で外相を辞任。だが、明治27年(1894年)陸奥宗光外相は、領事裁判権の撤廃と関税率の引き上げ、相互対等の最恵国待遇を内容とする「日英通商航海条約」の調印に成功。

 残された関税自主権の回復も、明治44年(1911年)小村寿太郎外相のもと「日米通商航海条約」によって達成されることとなる。

 このように日本の条約改正事業は、内外の条件や環境がミスマッチして容易に達成されず、今日から見て、井上や大隈の方針やその内容をいかようにも批判することができるであろう。しかし、日本がいたずらに外国人への排斥的行動に出ることなく、あくまで外交上合法的な、そして執拗な努力によって、劣悪な国際法上の地位を一歩一歩向上させたことの意味を決して見落としてはならない。

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