6)日清戦争

 明治8年(1875年)日本軍艦が朝鮮側の江華島砲台から砲撃され、日本が報復に砲台を破壊した「江華島事件」の後、明治9年「日朝修好条規」を締結。この条規に基き、日本は、朝鮮を自立した国家として認めて開国を促した。

 開国以降の朝鮮内部では、大院君への対抗心から、日本の明治維新をみならって自国を改革したいとする親日派(独立党)勢力と結んだ閔氏一族が台頭していた。明治15年(1882年)これに反対する大院君側の指導で、閔氏政権を倒し日本人を拝斥する大反乱「壬午事変」がおきる。壬午事変は、清国の鎮圧により早期解決をみるも、清国の機敏な対応は、朝鮮における清国の潜在的な存在をクローズアップするには十分であった。

 明治17年(1884年)には親日指導者で朝鮮内政改革をめざす金玉均、朴泳孝らがクーデター「甲申事変」をおこす。この時、日本軍は王宮を占領したが、清国軍の出動によって鎮圧。甲申事変は、日本政府の意図するものではなかったが、その後、「天津条約」によって、両国は朝鮮から撤兵する。しかしながら、以降、日本と清国の間の溝は深まるばかりであった。

 明治27年(1894年)東学党の乱、「甲午農民戦争」が勃発。すでに親清派に態度を変えていた閔氏一派が、清軍の派兵を要請し、清国がこれを機会に朝鮮を一挙に支配下にいれようとしたため、日本もあわてて出兵する。

 当時、「日英通商航海条約」が締結され、英国が日本に好意的だったこともあり、第二次伊藤内閣は清国との戦争「日清戦争」に踏み切り、日本は、あの巨大な清国に勝利する。翌明治28年4月には、日清間で「下関条約」が締結され、日本は遼東半島・台湾の割譲、また、賠償金を得て大陸進出への一歩を踏み出すことになった。

 だが、極東進出を狙っていたロシアは、ドイツ、フランスを誘って、日本に遼東半島返還の要求をせまった(「三国干渉」)のである。この三国干渉は、日本に「臥薪嘗胆」の思いを抱かせ、後の日露戦争への気概となっていく。

 ところで、当時の日本にとって、先に述べた条約改正が、国際法上の地位向上の課題であったとすれば、対朝鮮問題は、国家の安全保障にかかわる問題であったということを特筆しておきたい。

 政府の朝鮮政策を規定したのは、まぎれもなく北方ロシアの朝鮮への進出が日本の直接的な脅威になるという国際戦略上の懸念であったし、また、日本を含めた極東地域が、世界的規模で展開されていた英国とロシアとの先鋭的な角逐の場となりうる状況に加え、そこに他の欧米諸列強がどのようにかかわるのかも見過ごすことのできない要素であった。

 明治初年からの征韓論と後の明治43年(1910年)の韓国併合を一直線に結びつけ、当時の日本に首尾一貫した朝鮮植民地化の意図があったと読み取ってしまうのはあまりに短絡した推定であるし、むしろ、迫りくる国際戦略上の懸念を苦慮しつつ、国家の安全保障を一歩一歩築きあげる政府首脳たちの姿を見て取りたい。

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