昭和天皇とマッカーサー

昭和20年(1945年)8月15日、天皇陛下の玉音放送によって日本国民は終戦を迎えた。その15日後の8月30日厚木飛行場にレイバンのサングラス、口にはコーンパイプをくわえたいでたちでマッカーサー元帥が降り立った。時のアメリカ大統領トルーマンに史上空前の全権を与えられての登場であった。元帥は東京の皇居前にある第一生命ビルに入りそこを連合軍総司令部(General Headquarters = GHQ )とした。それから5年8ヶ月に及ぶマッカーサーによる日本統治が始まったのである。(昭和27年(1952年)4月28日に発効したサンフランシスコ講和条約によりアメリカの対日本軍事占領が終結した。)一体どのような考えでマッカーサー元帥は日本を統治しようとしていたのか、天皇を裁くつもりだったのであろうか。

西鋭夫氏著の「國破れてマッカーサー」をもとに考察する。

 日本降伏前の時点でアメリカは既に天皇制度をどのようにするかのレポートをまとめあげていたという。それは、

「日本の無条件降伏、あるいは完全敗北と同時に、天皇の憲法上の権限は停止されるべきである。政治的に可能で、実際に実行できれば、天皇とその近親者たちは身柄を拘束し、東京から離れた御用邸に移すべきである」「天皇を日本から連れ出さなくてもよい」「もし天皇が日本から逃亡したり、あるいはその所在が不明の場合には、天皇のとるいかなる行動も法的有効性を持たないことを日本国民に伝えるべきである」「中国およびアメリカの世論も次第に天皇制の廃止に傾きつつある」。
                                      「國破れてマッカーサー」西鋭夫氏著

 日本の終戦前にこれだけのレポートをアメリカ国務省は既に準備していたのである。用意周到というか先の先を見越してのアメリカの姿勢が窺える。

 アメリカ政府は単に天皇制度を廃止するだけでは問題解決にはならないと理解していたものの、だからと言って天皇を戦争犯罪容疑からはずすつもりはその時点ではなかった。というのは終戦2ヶ月前のアメリカ国民の世論調査(注1)やソ連、中国、イギリス、オーストラリアは天皇を戦犯として裁くべきだと考えており、天皇制度について早急な決断が出せずにいたのではないか。

「そして、昭和20年(1945年)9月27日、朝10時15分、天皇は、黒のモーニングとシルクハットを召し、マッカーサーをアメリカ大使館内のマッカーサーの宿舎に訪問された。宮内省は、天皇の訪問を「非公式なお出まし」と国民に伝えたが、日本国民はそれまでそうした前代未聞の天皇の行動を聞いたことがなかった。それまでは外国人が天皇を表敬訪問するのが礼儀とされていた。天皇のマッカーサー訪問という公式発表によって、日本国民は、いまや誰が日本の元首であるかを悟った。マッカーサーは、日本国民に自分の力を示すため、天皇を入り口で出迎えなかった。マッカーサーの副官二人(ボナー・フェラーズ代将、通訳フォービン・バワーズ少佐)が正装の天皇を出迎えた。マッカーサーと天皇は35分間、天皇の通訳(奥村勝蔵)を通し、会談した。

<余談にはなるが奥村は昭和16年(1941年)日米開戦の時、パーティをしていて日本政府の宣戦布告をアメリカ政府に渡すのが遅れた職務怠慢と大失態に関与した人物である。また第4回目の天皇・マッカーサー会談の通訳もするが、この内容をマスコミに漏らして懲戒免官処分となった。さらに不思議なことに、占領が終わった直後の昭和27年10月、吉田首相は奥村を外務次官に就任させている。>                       「國破れてマッカーサー」西鋭夫氏

 どうやら、日本において、政治家、官僚が責任を取らない習慣は戦前、戦後を通して変わってはいないようである。

昭和天皇とマッカ−サ−

 この会見で、天皇陛下が言われた言葉が、マッカーサーを感動させた。

天皇「私は、日本国民が戦争を闘うために行った全てのことに対して全責任を負う者として、あなたに会いに来ました。」この勇気ある態度は私の魂までも震わせた。と後にマッカーサーは回顧録に執筆している。

     「國破れてマッカーサー」西鋭夫氏

 天皇自らはマッカーサーとの会見は「男と男の約束」として内容を一切後に伝えることはなかった。また、奥村の残したメモにこの発言がなかったことからこの発言の真偽を問う説があるが、青木冨貴子氏がフォービン・バワーズ氏に取材をした結果からも天皇が上記の内容の発言をしたことは間違いない。

そして、この第一回目の会談により「戦犯天皇」に対するマッカーサーの考えも変わっていった。
昭和20年(1945年)10月26日、アメリカ政府はマッカーサーに、「天皇ヒロヒト」は戦犯として裁判にかけられることからのがれているのではないのか、天皇に対する裁判は、アメリカの占領目的から切り離されるものではないと通告している。
昭和21年(1946年)1月7日、アチソン政治顧問はマッカーサーに極秘メモを渡す。
「私の信念ですが(アメリカの同盟国も強く要求していることですが)、問題がなければ、天皇は戦犯として裁かれるべきであります。日本が真に民主主義国家になれるのであれば、天皇制は消滅しなければなりません。これが理想的ではあるが、天皇を裁けば、ひどい混乱を引き起こし、多くの親日家たちも、政府を維持できるだけの人物を見いだすことは不可能だと思っています。それ故、“天皇の利用価値”につき我々の目的を遂行するにあたり、(天皇が我々への)助力を惜しまないことを表明し、一見民主化を推し進めたいと努力している天皇を利用するのは当然」と報告している。天皇とマッカーサーの会見後も根強く天皇への戦争責任追求が示されている。
 「國破れてマッカーサー」西鋭夫氏

 ただし、統治するアメリカにとって、日本人の天皇に対する思いを考えると天皇を裁くのは不都合が生じるかもしれないとし、あくまでも天皇を利用する姿勢が窺える。誤ってはいけないのは、アメリカは己の利益の為に(天皇を助けたいなどというセンチメンタルなものではない)天皇を利用しようとしたのである。

マッカーサーは、日本に上陸して僅か5ヶ月後、日本国民の日常生活の中で、その精神文化の中で、天皇がいかに重要な存在であるかを完全に把握していた。天皇を死刑にすれば、日本は崩壊し、マッカーサーの統治は不可能となる。天皇は生かしておかなければならなかった。

昭和21年(1946年)1月25日、マッカーサーは陸軍省宛に極秘電報を打った。この電報が天皇の命を救う。
「天皇を告発すれば、日本国民の間に想像もつかないほどの動揺が引き起こされるだろう。その結果もたらされる事態を鎮めるのは不可能である。天皇を葬れば、日本国家は分解する。連合国が天皇を裁判にかければ、日本国民の憎悪と憤激は、間違いなく未来永劫に続くであろう。復讐の為の復讐は、天皇を裁判にかけることで誘発され、もしそのような事態になれば、その悪循環は何世紀にもわたって途切れることなく続く恐れがある。政府の諸機構は崩壊し、文化活動は停止し、混沌無秩序はさらに悪化し、山岳地域や地方でゲリラ戦が発生する。私の考えるところ、近代的な民主主義を導入するという希望は悉く消え去り、引き裂かれた国民の中から共産主義路線に沿った強固な政府が生まれるだろう。そのような事態が勃発した場合、最低百万人の軍隊が必要であり、軍隊は永久的に駐留し続けなければならない。さらに行政を遂行するためには、公務員を日本に送り込まなければならない。その人員だけでも数十万人にのぼることだろう。天皇が戦犯として裁かれるかどうかは、極めて高度の政策決定に属し、私が勧告することは適切ではないと思う」 「國破れてマッカーサー」西鋭夫氏

なんという脅しであろうか。戦後50年を経て、この平和な日本では想像出来ない世界である。マッカーサーが恐れたものは、日本人の魂と共産主義だったのか。

この電報を受け取った陸軍省は、すぐさま国務省との会議を持ち、国務省と陸軍省は天皇には手をつけないでおくことに合意した。「國破れてマッカーサー」西鋭夫氏

 マッカーサーが次に恐れていたのは天皇の退位問題である。マッカーサーの日本統治にとって、天皇は絶対に必要であった。東京裁判の判決が下る日にも天皇はマッカーサーを訪問する予定でいたようである。
その後、天皇とマッカーサーは会談をし、おそらくマッカーサーが引き止めをしたのであろう。天皇退位の噂は消えていった。

(注1) 終戦2ヶ月前のアメリカ国民の世論調査<出典:國破れてマッカーサー>
昭和20年(1945年)6月29日に発表された天皇の戦争責任についての世論調査では「天皇処刑」33%、「裁判にかけろ」17%、終身刑11%という結果だったという。

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