10.教育基本法(施行後)

教育基本法はわが国の教育体制を根底において規定する法律であり、いわば教育憲法的性格を有するだけに、その全体および各条について、これまで実にさまざまに評価され、解釈がほどこされてきた。しかもその解釈はしばしば厳しい対立を伴った。とくに評価が分かれるのは教育の目的に関してであり、解釈が激しく対立するのは、教育行政に関してである。

 そうした状況から、これまですでにその制定過程の究明や詳細な条文解釈など、多くの研究がなされている。教育基本法について私なりの解釈を加えて、その制定過程の分析を行なって、この教育基本法に対する評価が制定当時から今日に至るまでの間にいかなる変遷をとげてきたかがわかる。

 世間ではあまり知られていないことだが、教育基本法に関する評価は実に劇的な変化をみせてきた。教育基本法が公布されたのは昭和22年(1947年)3月31日のことだが、その当時この法律に関する国民の関心は決して高くはなかった。むしろその重要性に比べて低かったといってよい。アメリカの占領期間を通じてひろく教育界の関心を集め、高い評価を与えられていたのは、教育基本法ではなくて、対日アメリカ教育使節団報告書であった。この報告書こそ「日本の教育改造に関する根本的で革命的な報告」であり、戦後の教育改革は「凡てこの報告の線に添うて、アメリカの具体的な指導の下に進行している。改革は端的に言って自分の手で行われたものではない」と判断されたからである。「宗像誠也『教育の再建』より引用」

 この報告書の非常な関心と讃辞に比べ、わが教育基本法に対する関心は乏しく、その評価もまた意外に低いものであった。大熊信行氏の観察によれば、「教育基本法の存在をかえりみるものが皆無だという教育界の実情」(「平和教育と教育基本法」「内外教育版」昭和24年12月20日号)であった。昭和22年(1947年)3月13日に上程された教育基本法案は両院ともわずか3〜4日の審議を経ただけで3月25日には原案通り可決成立しているのである。

 鈴木英一氏によれば「議会は、昭和22年4月の総選挙を控えて、選挙気分で動揺しており、慎重に審議することなく、無修正のまま通過した。
各派とも一時審議打切り、新国会の審議に委すべきである趣旨の決議案を上程しようという動きもみられたが、同年4月からの六三制強行という占領軍の意向におしきられた。新聞は歓迎の意を表明して、「教育基本法の重大性」について、若干のPRを行なったが、国民の関心は低かった。当時の経済危機の中にあって、教員組合運動は、賃金闘争に主力を注ぎ法案闘争に見るべきものはなく、一般国民も法案のもつ意味を理解できる生活的余裕をもたなかった。

これは要するに、教育基本法は、国民不在のままに一部のエリート的知識人・官僚・占領軍の三者の「密接な連絡のもとで」立案され、そのまま成立に至ったのであり、国民の関心が低いのも当然であった。今日であればこれだけの重大法案がかくも短期間の審議で無修正のまま通ることはありえない。その点では、まさに戦後的状況の下でのみなしえたドサクサ立法であった。 

 

昭和22年(1947年)3月13日   教育基本法案上程

           〃                           3月25日    教育基本法案可決成立

                               3月31日     教育基本法交付

 この「民主主義国日本の公認の教育目標」について、「ここには、一息で読みくだせないほどに、いろいろの理想の条件がならべられている。見事な作文である。どこからつっこまれても、逃げ場所が見つかるような、八方美人的な、どちらにでも解釈が自由にきくような文章」である。「日高六郎『教育基本法の評価の変遷』より引用」

 教育的基本法の理想は「あまりにも明るすぎ、あまりにも見事であり、あまりにも安楽椅子的でありすぎ」起革者たちの善意は疑わないにしても、ここには「時代的歴史的な危機意識にうら打ちされ、日本の教師と子供たちをとりまいている暗い現実の認識」が欠けている。
 昭和20年代における教育基本法の解説はそのほとんどが文部省関係者によって書かれている。これに反し、教育基本法とこれの起案に当たった教育刷新委員会に対する評価は左翼にゆくほど厳しいものがあった。たとえば日教組が「日本の教育基本法という法律は『人格の完成』というきわめて抽象的な原理宣言を公にしているが、それでは教育の目的は明らかにならない」といった調子できめつけていた(「解説・教師の倫理綱領」昭和26年)のも、今からでは想像もつかないことである。最左翼に位置していた「民主主義教育協会」(民教協)に至っては、「刷新委員会の委員こそ、委員長安部能成以下全面的に刷新さるべきである」とまで極論していたのである。

 以上のような論調に変化が生じるきざしが見え出すのは昭和29年のいわゆる教育二法反対運動の頃からであり、昭和30年代の前半において政府と日協組の見解が相互に入れ替わったかのごとき現象が次第に出てくる。そのきっかけとなったのは、昭和30年(1955年)11月に成立した第三次鳩山内閣の文相に就任した清瀬一郎氏が、教育基本法について不満を表明したことに始まり、昭和35年(1960年)7月からの第一次・第二次池田内閣の荒木萬寿夫文相が教育基本法改訂の意図を示すに至って決定的となった。

 清瀬文相の批判は、主として教育基本法第1条に向けられた。人格の完成・平和な国家と社会・真理・正義・個人の価値・勤労・責任・自主的精神の八つの教育目的自体が悪いというのではないが、国に対する忠誠心、父母・祖先に対する報恩感謝の念など、日本人としての伝統的な徳目を欠いたコスモポリタン的なものだというのである。荒木文相のそれもほぼ同様であって、要するに教育基本法の内容自体は結構だが、立派な日本人をつくるという観点が乏しく、どこの国の教育基本法だかわからないということにあった。このように文教行政の責任者が教育基本法の改訂意図を示し始めるにつれて、これまでのこの法律に批判的であったり、関心がうすかった進歩的文化人や教育学者たちが、にわかに積極的な関心を寄せ、教育法擁護の側にまわるようになる。いままでのわれわれ自身に、教育基本法などを無視してしまう習慣があった。 これは、昭和22年3月、この法が制定されたあとのことをふりかえってみればよくわかる。たいていの場合、文部官僚は、いわゆる進歩陣営の批判などに、何か答えるときにそうしたのである。ではその進歩陣営はどうしたのか。ここに規定されているようなことは、もうわかりきったことのように考えた。このような法律は、天皇の勅令にかわって、国会が決めたという点では、きわめて画期的であるとは考えていても、どうせその国会で大きな力をしめていたのは保守党の連中だから、ブルジョア民主主義の教育方針をうちたてたにすぎないと、心中では批判していた。そこから、この法を無視してしまうか、この法にケチをつける態度が当然生まれたのだった。一方からいえば、なにかしら革命的になりすぎて、戦後の日本では、民主主義革命を課題とするのではなくて、社会主義革命を課題とするのだというような雰囲気があった。そのため教育基本法などを拡大ないし拡張解釈して、それによって仕事をやりつづけるという考え方すらあった。そこから、いざ、アメリカ合衆国首脳者をはじめ、国内の保守反動勢力が、この教育基本法を(もちろん憲法をも)改悪しようとしたり、この精神によってする教育実践にケチをつけたりすると、「さあ、たいへんだ」ということで憲法擁護・教育基本法擁護の声が、ようやくあがってくる。教育基本法擁護の運動がたかまる契機となったのは、教育基本法に再検討の余地ありとする政府文教担当者の言辞であったが、肝心の教育基本法改正構想はなんら具体化することもなく、立ち消えとなった。マスコミ、野党各党、日教組などの反対にあって、もろくも挫折してしまい、本音はともかく、少なくとも建前としてはかえって教育基本法尊重を確認する結果に終わるのである。憲法改正問題もそうだが、これは自由民主党の定型的な行動パターンの一つといえよう。教育基本法は抽象的であり、世界のどこにも適用する普遍性をもっているが、それだけに日本の今日にぴったり合っているかといえば、そうとは断言できない。

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