第4話 終わりに

1)伝統的な日本文化

 21世紀を目前に控え、次世代を担う子供達の教育について再考すべき時期にきている。現代の教育を考えると、本当に今の教育で良いのか、戦後の教育は全て正しかったのか、もう一度検証してみる必要がある。日本は非常に文化や倫理道徳を大切にしていた時代があった。たとえば、平安中期(978年)には、紫式部が「源氏物語」、清少納言が「枕草子」を執筆し、世界的文学史の上でも女流作家として非常に稀有な存在である。また、西行(1118〜90年)・藤原定家(1162〜1241年)は平安後期・鎌倉前期の歌人で両名とも花鳥風月を五感でとらえ詩にする様は芸術の域である。そして、世阿弥(1364〜1444?年)は室町前期の能役者で、父観阿弥が残した業績に基づき、世に有名な「秘すれば花、秘せねば花なるべからず。」という能の域をこえた芸術書である「風姿花伝」を執筆している。世界的に見ても、シェークスピアより200年も先に戯曲をかき、しかも書が単なる理論からうまれたものではなく、自作自演の経験から、さらに深い芸術論を展開しているところが、世界でもまれである。また、「葉隠」は、山本常朝(1659〜1719年 佐賀鍋島藩士)の武士道に関する談話を藩士田代陣基(つらもと)が筆録編集したもので、およそ七年の歳月をかけて、享保元年(1716年)に完成した。「武士道とは、死ぬことと見つけたり」という言葉があるが、これは「ただ死に急ぐ」ことを言っているのではなく、「生きることの大切さ」を表しているのである。死ぬことの意味がわからなければ、生きている意味もわからない。明日死ぬかもしれないからこそ、今日生きている意味もわかるし、一日一日を大切に生きようと思う。武士道において無意味な死は、「犬死」として蔑まれた。このような西洋の「騎士道」にも通じる「武士道」は、新渡戸稲造によって「BUSHIDO」The Soul of Japanとして英文で約100年前に出版され世界的ベストセラーになり、その後和訳された。今日に失われてしまったとても大切な人としての「情操教育」「徳の教育」がこれらの中に封じ込められている。  

2)誇りある国家「日本」の創造に向けて 

 このようにかつての日本は海外からも文化や礼節を大切にする国民と称賛されていた。しかし、現代は、校内暴力、いじめ、不登校、学級崩壊と、礼儀や思いやりの心の欠如が一因と考えられる教育現場の荒廃も極まった感がある。今の教育は偏差値を追及する余り、全ての段階において正解主義、数値化、序列化が台頭し、「心」を忘れたかのような学歴偏重主義に陥っている。その「心」を育てる為の歴史教育は捻じ曲げられ、他国の論理だけに偏り自虐的になっている。人は、その人の人生観や哲学を歴史を学ぶことによって得ることが多い。その歴史教育がゆがんでいては、将来を担う子供達がこの国を誇りに思って背負って行こうという気持ちはなくなる。今、求められていることは、何が「善」であり、何が「悪」であるのか。はっきりと見定め、未来の日本人の為の歴史教科書をリベラルな視点で作成していかなくてはならない。

 海外に目を向けても「愛国心を持ち自国の文化を大切にすること、そして自国を象徴する国歌や国旗を粗末にせず、国民としての自覚と誇りをもつことが、国際化には一番大切である。」と教育されている。また、イギリスの教科書には「教育勅語」が徳の教育として紹介されているものもある。このように教育においても日本の常識が世界の非常識であることが非常に多い。

 文化を軽視し、誇りを持たない国は衰退する。家族や地域を愛することが延いては国を愛し、文化を築きあげる。自国に誇りの持てる子供達を育てることが、共存共栄できる21世紀に繋がる。ただ、自虐的になっているだけではなく、正しい歴史を学び帰属しているものに対して「誇り」をもち、自己に「プライド」をもてるからこそ、相手を尊重できる。その心こそが、共存共栄の世界を創り地球市民としての大切な心構えになる。正確な歴史認識をしたうえでの教育こそが重要であり、貧富の差なくなんびとにも与えられた人間としての最高の特権であり、そのことを踏まえた上での人格完成(人格形成)こそが究極目標である。 

3)最後に

 この本が将来を担う子供達の正しい成長の一助になればと思い、歴史学者ではなく我々JCメンバーが、苦労に苦労を重ね執筆した。主観の違いもあるかもしれないが、限りある時間を精一杯使い真剣に様々な文献を調べ「本当にこの国を良くしたい」熱意のもと書き上げた。戦後教わらなかったこのような「歴史の真実」があることを少しでも認識して頂ければと思う。

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